「いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」は、
- どちらも良い選択肢であり、選びがたいほど両方が素晴らしい
という意味の日本のことわざです。
同じ意味を持つことわざは、世界中の多くの国々で少し違うニュアンスで表現されています。
この記事では、世界各国の「いずれ菖蒲か杜若」に相当することわざが、各国の言葉でどのように表現されているのかを紹介します。
- 世界の『いずれ菖蒲か杜若』を一挙紹介します
世界各国の「いずれ菖蒲か杜若」
日本語:いずれ菖蒲か杜若
いずれ菖蒲か杜若(イズレアヤメカカキツバタ)は、二つの美しい花、菖蒲と杜若を比べることから、どちらを選んでも満足できる状況を表しています。
中国語:六月飛雪、鵲橋相會
「六月飛雪、鵲橋相會(ロクゲツヒセツ、ジャクキョウソウカイ)」は、直訳すると「六月に雪が飛ぶ、カササギの橋での出会い」となりますが、これは現実にはありえない美しい出来事を指し、どちらも美しい選択肢であることを意味します。
韓国語:장미와 라일락
장미와 라일락(ジャンミワライラック)は「バラとライラック」の意味で、どちらも美しく選びがたい二つの選択肢を表しています。
英語:Six of one, half a dozen of the other
Six of one, half a dozen of the other(シックスオブワン、ハーフアダズンオブジアザー)は、直訳すると「一つの六、もう一つの半ダース」となり、どちらも同じことを意味し、選択に大きな違いがないことを示しています。
フランス語:Bonnet blanc et blanc bonnet
Bonnet blanc et blanc bonnet(ボネブランエブランボネ)は「白い帽子と帽子の白」という意味で、事実上の違いがない二つの選択肢を指します。
ドイツ語:Wasch mir den Pelz, aber mach mich nicht nass!
Wasch mir den Pelz, aber mach mich nicht nass!(ヴァッシュミアデンペルツ、アーバーマッハミッヒニヒトナス)は、直訳すると「私の毛皮を洗って、でも私を濡らさないで!」となり、どちらの選択も望ましい結果につながることを示しています。
スペイン語:Seis por media docena
Seis por media docena(セイスポルメディアドセナ)は「六つで半ダース」という意味で、英語のことわざと同様、どちらも同じ結果を意味する選択肢を示しています。
スワヒリ語:Kupima joto kwa mkono
Kupima joto kwa mkono(クピマジョトクワムコノ)は「手で熱を測る」という意味で、どちらの選択も同じくらい難しいことを示しています。
アフリカーンス語:Ses van die een, halfdosyn van die ander
Ses van die een, halfdosyn van die ander(セスファンディエーン、ハーフドゾインファンディアンダー)は「一つの六、もう一つの半ダズン」という意味で、どちらも等価の選択肢を示しています。
アラビア語:مثل الحمار بين البيدر والماء
مثل الحمار بين البيدر والماء(ミスルアルハマールバイナルバイダルワルマア)は「穀物堆と水の間のロバ」という意味で、どちらの選択もできない状況を表していますが、どちらも魅力的な選択肢であることを意味します。
ヘブライ語:זה כזה וזה כזה
זה כזה וזה כזה(ゼケケゼウゼケゼ)は「これもこれ、それもこれ」という意味で、どちらの選択も等しいことを示しています。
ポルトガル語:Seis por meia dúzia
Seis por meia dúzia(セイスポルメイアドゥジア)も「六つで半ダース」という意味で、どちらの選択も同じ価値を持つことを示しています。
マオリ語:He tātai whetū ki te rangi, mārama
He tātai whetū ki te rangi, mārama(ヘタータイフェツーキテランギ、マーラマ)は「星々を天に織りなす、明るい」という意味で、どちらの選択も美しく輝くものであることを示しています。
イタリア語:Sei dell’uno, mezza dozzina dell’altro
Sei dell’uno, mezza dozzina dell’altro(セイデルウーノ、メッツァドッツィーナデルアルトロ)も「一つの六、もう一つの半ダース」という意味で、どちらの選択も同じ結果になることを示しています。
タイ語:เหมือนกันหมดทั้งคู่
เหมือนกันหมดทั้งคู่(ミュアンガンモットターングクー)は「両方とも全く同じ」という意味で、どちらの選択も等価であることを示しています。
ウクライナ語:Шість одного, півдюжини іншого
Шість одного, півдюжини іншого(シーストオドノゴ、ピヴジュジニインショゴ)も「一つの六、もう一つの半ダズン」という意味で、どちらの選択も同じ結果を意味します。
ヒンディー語:छह एक का, आधा दर्जन दूसरे का
छह एक का, आधा दर्जन दूसरे काも「一つの六、もう一つの半ダース」という意味で、どちらの選択も同じ価値を持つことを示しています。
最後に
この記事では、世界の『いずれ菖蒲か杜若』を紹介しました。
「いずれ菖蒲か杜若」に相当するこれらのことわざは、世界中で異なる文化的背景を持ちながらも、共通の人間的経験を表しています。
選択の難しさ、美しさ、そして等価性を表現するこれらの言葉は、世界各地で人々の心に響きます。
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